長野県岡谷市。標高が800m。町の中心にある諏訪湖の放射冷却により、冬では-10度まで気温が下がることもある地域だ。
2020年4月、コロナウイルスの襲来と同じタイミングで群馬県からここ岡谷市に転勤で引っ越してきたが、赴任早々ロックダウンが始まった。技術営業の仕事では客先に訪問する訳にもいかず、ただ自宅でテレワーク扱いという名の暇を持て余していた。キャンプで愛用しているチタンのマグカップを片手にカーテンを開け、眩しそうにアパートの庭先を見つめる。隣に見える中学校では遅咲きの桜が満開となっていて空との鮮やかなコントラストをなす。
ふと右手に物置があるのが見えた。内覧した時は気づかなかったそれが無性に気になり、マグカップを片手に持ったままサンダルを履いて物置を開ける。中には小さなスコップだけが置いてあった。何かが置いてあることを期待していた僕は桜を見上げると一口だけコーヒーを啜って部屋に戻る。
PCを開いて簡単なメールチェックを終えた時、ため息と共に先ほどのスコップが過ぎった。二階建ての戸建住宅をリフォームして縦に二分割したこのアパートには、猫の額ほどの庭がついている。ちょっとした家庭菜園くらいならできそうだ。続けて手元の携帯で検索エンジンを開き、『野菜づくり 方法』と検索する。なるほど、畝を立てそこに苗を植えたり種を蒔くのか。簡単そうだ。
定時早々PCをシャットダウンした僕はスコップを取り出し、笹が疎らに生えた庭の土に突き刺す。思ったより簡単に刺さった。上からザクザクとスコップを突き立て土をほぐしながら笹の根を取り除き、土を掬って左右に寄せる。中からゴロゴロと出てくる石は畑の枠に使うことにした。額に汗かく程度で一坪のスペースに2mの畝が二つ出来た。
4月といえど、山に囲まれた長野の夜は早い。薄明るい空に反して辺りは暗くなっていた。今日はここまでにしよう。その後、すっかり満足した僕は畝を立てたことをすっかり忘れて一ヶ月が経過していた。
ロックダウンに続く形でゴールデンウィークに突入した。県外との往来も自粛が求められている。近所を突っ掛けサンダルで散歩したり霧ヶ峰をドライブしたが、ものの2、3日で近場を一回りしてしまった。庭先で小さなバーベキューコンロを出し肉でも焼こうかと思ってところ、筆を立てたような状態の笹が疎らに伸びている畑が目に入る。すっかり気が逸れた僕は手に持ったコンロを空っぽの物置にしまい、近くのホームセンターに向かった。
ホームセンターは時短営業となっていたが、入り口のスペースには濃緑の苗が並ぶ。自粛ムードの中家で出来る趣味として皆同じようなことを考えているのだろうか。普段と遜色ない品揃えだ。
植え合わせなどは特に考えず食べたい野菜の苗を手にとってカゴに入れる。胡瓜、茄子、ピーマン、シシトウ、モロヘイヤ…。冷涼な地域であるここはまだ肌寒く、春も感じなかったがすでに夏野菜が顔を揃えている。化成肥料と書かれた袋と併せて10種類ほどの苗を購入した。庭に野菜の苗を植えるだけで4000円ほど掛かった。
野菜を植えてからは朝の水やりが習慣になっていた。庭の立水栓から水をジョウロに入れる。この地域の水はとにかく冷たく濡れた手はみるみる凍えていく。並々注いだ水を畑のそれに遣りながら観察をする。それなりに手をかけているつもりだったが葉物野菜は日に日に黄色くなり、果実の野菜も花ばかり咲いて一向に実る気配がない。唯一シシトウの株だけ充実していた。
日当たり、水はけ、栄養、気温、原因の予想が付かない。結局このシーズンは僅かなシシトウの収穫だけに終わった。「買った方が安いな。」当たり前に収穫が楽しめると思っていたのでとんだ期待はずれだ。気持ちばかりのシシトウは、採れたてだから美味いといったこともなかったので、次のシーズンは植え付けをせず、ただ畑が笹に埋もれ元の状態に戻っていく様子を傍観していた。