ep1-2:大人の秘密基地

池の畔で建てる家

物件見学の日。はやる気持ちのせいか、不動産屋が来る前に様子を見ておきたいと妻と自分に言い訳をしつつ随分早くに到着した。

心の準備をしようとあえて2週間先のアポイントにしたが、ずっと土地のことを考えていた。調べた限りでは家も普通に建てられそうだ。土砂災害警戒区域に掠っていることに気づいたが、土砂の射線の端だったので、平地での洪水リスクよりここでの土砂災害のリスクの方が低いだろうと許容することにした。

横には半ば強引に連れ出した妻がいる。待ち合わせていた不動産屋の営業マンはまだ来ていない。小雨が降る中、ワイパー越しに外の様子を伺うと、梅雨の雨を吸い上げた背丈よりも高い雑草が一面を覆っている。この土地を見かけた2週間前から明らかに伸びている。そのため土地の全容が見えない。先に物色したい気持ちを抑えて不動産屋を待つことにした。

雑草の葉は雫を湛えて垂れ下がっている。しまった。この草を掻き分けて入っていくなら濡れないような服装で来るべきだった。

この土地を見かけてから今までの間、熱烈な購入希望者など出てきていないだろうか。前よりも伸びた雑草が売土地の立て看板を覆い隠していて少し安堵する。

予定よりも少し早い時間、白い軽自動車が僕の車の後ろにつけて、中からジェルで前髪を流したスーツ姿の男性が現れた。ザ・営業マンといえるその姿はハウスメーカーに勤務していた僕にも覚えがある出立ちだ。続けて僕達も車を出る。

「イエシティの村山です。」30歳の僕と同じか少し若いくらいだろうか。肘には傘を三本掛けている。名刺と続けて傘を手渡してもらった。

「草が多いですが、建物も見たいので中に入ってもいいですか?」腹を決めて草を分け入るつもりだ。村山さんは土地の方と僕を交互に見て少し狼狽えたが、すぐに「もちろんです。案内させていただきます。」と爽やかな笑顔に切り替えた。一人で見ても良かったが提案に甘えることにした。

村山さんは傘を畳み、背丈ほどもある雑草を傘で薙ぎ倒しながら進んでいく。センタープレスのしっかり出た紺ストライプのスラックスは、雑草が揺れて撥ねる雫でみるみる濃く染まってゆく。大きな蜘蛛の巣はきらりと揺れて、真ん中に陣取っていたジョロウ蜘蛛が雑草の枝にしがみつく。

ふとミントの匂いが漂ってきたと思い足元を見ると、溶岩石のタイルが見えた。顔を上げると玄関についたようだ。雨か汗か濡れた額に前髪を張り付けた村山さんは、短い鍵をバックから取り出し解錠すると、身を反転しながら玄関扉を開けた。「どうぞ、靴のままでお上がりください。」これがまともな建物であればスムーズな所作であるが、ここは廃屋である。開け放つ扉は大きく伸びた虎杖をバキバキとへし折っていた。

一歩中に入る。雨のせいだろうか。むわっとした湿気と共にカビの匂いがする。少し躊躇った後、靴のまま上り框を跨ぐ。床が軋む音がした。玄関を見渡すと右手に扉が二つ、正面に一つ。左手に二つ扉がある。

村山さんが僕の横を通ると左の扉を開けて掃き出し窓のブラインドを開け、続いて窓を開けている。どうやらリビングのようだ。左の扉はどちらもリビングに続いている。先に右の手前から順に見ることにした。

右手前はキッチンだ。黄ばんだクリーム色のキッチンに小さな冷蔵庫、食器棚がある1.5畳ほどのスペースだ。やかんと小鍋がガス代の上に置かれている。冷蔵庫を開けてみる。賞味期限がとうに切れたラガービールと2Lのコカコーラが入っている。腐る食品が入っていなくて良かった。

次に右奥の扉を開ける。洋式だが水栓タンクが無い。汲み取り式のトイレのようだ。大きな蜘蛛の抜け殻が落ちているのが見える。恐る恐る便座の蓋を開けたが底は見えない。臭いがしなかったので便槽に何も入っていないと信じたい。

次に正面の扉を開ける。ここは洗面所のようだ。隣に続く風呂場の浴槽の底には虫の死骸のようなものが散らばっている。ベコっと凹んだ洗剤のスプレーボトルとヘアトニックがシャンプーラックに置いてある。洗面所に戻り何気なく目に入った三面鏡を開けたときだった。「うわっ!」手のひら程のアシダカ蜘蛛がボトっと落ちてきた。さっきの抜け殻の正体だろうか。カサカサと音を立てそうな動きで洗面器をよじ登ろうとする。そっと脱衣所から出て扉を完全に閉める。とりあえず見なかったことにしよう。

さっと見た限り生活感はあるものの物は少なそうだ。妻はまだ玄関に佇んで様子を見ていた。妻を促して僕もリビングに入る。

リビングには毛皮のかけられた黒いソファ、テーブル、大きなブラウン管テレビがある。テーブルの上にはピースの吸い殻が入ったプラスチックの灰皿とスポーツ新聞が置いてあり、新聞の日付は2009年11月24日だ。まるである日急に時間が止まったように感じる。

「これ見て。」いつの間にやら物色していた妻が部屋の隅に置かれたキャビネットを指差している。ビデオが並んである。ふとタイトルが目に入った。

「”乱れお姉さん!”」思わずタイトルを読み上げてしまった。村山さんは苦笑いを浮かべている。言葉には出せないようなタイトルのビデオがずらりと並んでいる。ふと見回すと壁の四方にはスピーカー、ブラウン管テレビの上には高級そうなアンプも置いてある。

そういえばこの部屋はベッドも無いし布団を敷くようなスペースもない。そうか。ここは大人の秘密基地だったのか。それがある時から急に訪れるのをやめた。背景がなんとなく分かったところで一息ついた。建物はざっと10坪程度であろうか。物は多くなく見るところも少ない。

掃き出し窓の開口に覆い被さる雑草を眺めていた村山さんに声をかけた。「一先ず自分達で片付けられそうな状態で安心しました。建物の方は充分です。土地の方も草が多くてよく分かりませんがだいぶ広くて整えれば良さそうですね。」

村山さんはにっこりと笑い、「いかがいたしますか。前向きにご検討いただけるならお値引きの交渉もお手伝いさせていただきます。」と、こちらの顔色を伺いながら言葉を投げかけてきた。

値引きの話はあらかじめ売主から了承を得ているのだろうか。願ってもない提案だが思い切っている。「いいんですか。期待しちゃいますよ。」思わず口をついて出た。

「ここだけの話、売主様から他のお話をいただいている中で併せてご依頼いただいた物件でして、この状態ですし前向きにご検討いただけるなら頑張らせていただきます。」続いて、「具体的においくらでしたら決めていただけますか?」

きた。前もって100万円引いた390万円なら…と夫婦で話し合っていた。ただ村山さんの話ぶりでは多少吹っかけてもうまく交渉してくれそうだ。「半値、半値の250万円だったら土地に問題が見つからない限り決めます。」言いすぎただろうか。村山さんは爽やかな笑顔を崩さず「頑張ってみます。」とだけ答えた。

話もまとまったところで、そろそろ出よう。玄関に目をやると横窓の隙間からミントが侵入していた。立てかけた傘から滴る雨水が水溜まりを作って溶岩石のタイルに染み込んでいる。カビとミントが混じった匂いに不思議と懐かしさを覚えた。

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